「 熱 血 と 、快 老 」−平 尾 康 夫 物 語

まえがき

 
 そもそも私には、いわゆる自分史なるものを書き残す意志など、微塵も無かったものである。

若き頃、教員時代で張り切っていた頃、妻の雅子から、しつこく「あなたの生きざまを知りたいから、

生後、物心のついてからの生い立ちのこと、貧しかった新婚当時からの生活の記録、

仕事の悩みなど、何でもよいから、家族のために書き残して欲しい」との懇願であった。

 しかし、私はそんなものは、大成功を収めた人間が自己満足のために書き残すもので、

自分にはそんな資格はないと思い込んでいた。

 だから私はそれらしい用意も、記録のかけらも残っていない。

あるものは、八十有余歳を過ぎ、すべてが遠去りつつある私の記憶に頼るのみである。

そんな私に突然、執筆の意欲を沸き立たせてくれたのは、私の古い教え子の一人、

近藤幸三君の言葉であった。平成二十二年、五月のことである。

私は彼等と同級生数名に招かれての熱海での一泊旅行を楽しむことができた。

すでに高齢である私の身を案じて、同級生の一人中井靖彦君の自家用車で、

熱海までの往復中、心温まる心くばりをしていただいた。

 車中、充分な歓談の機会を得た。

同乗していた近藤君から彼の学生時代の想い出話をいろいろ聞く事ができた。

すでに、彼の職業上の業績などは知っていたのであるが、

彼の趣味を通じて、本職はだしになっている奇術の話、

現在更にはまっているプロ級の社交ダンス等の話を聞いて、

彼に対する関心が倍増する感があった。

 その矢先、彼から、自分史のことが、もち出された。

彼は、職業柄、その経験があるとのこと、私と同僚であった坂田正英先生のことである。

坂田先生は確かに、自分史を残されるに十分な業績を残され、人格的にも立派な先生であった。

そのような方の真似をすることなど、論外であると思い、始めは軽く聞き流すつもりであった。

 ところが、突然、気持がゆらいだのは、近藤君の言葉で、

「坂田先生の原稿は、内容が固過ぎて、何の面白味もなかった。自分が一部リライトして、

掲載順も本人の意に反して、大幅に変更して、ようやく出版することができた」ということであった。

 更に、世間に配ることなどは、二の次で、

「子や孫に、知られなかった自己の記録を残してやることに意義がある」ということであった。

なるほど、それなら、おれにだってできそうだな。

後は、何とか、近藤君が格好をつけてくれるだろう。

半ば、人頼みで、この原稿を認める気になったのである。

 家に帰ったら、女房から、わが意を得たりとばかりに、原稿用紙の束を何巻も手渡されてしまった

のである。

 これでは、さすが物ぐさの私でも、覚悟を決めざるを得ない。

書き始めれば、途中で、棒を折るようなことはないだろう。

とにかく長い長い船出を始めるような気持で出発したものである。

果してゴールまで辿り着けるかどうかが、わずかに気がかりである。

 平成二十二年六月
                                                平尾 康夫

 

ウィンドウを閉じる